朝日新聞 社説

朝日新聞 社説 2015年2月1日(日)付

フリースクール支援―どうつくる多様な社会 

不登校の子が増えている。

 学校を30日以上休んだ小中学生は2013年度、病気や経済的な問題を除いても約12万人に上っている。その数は20年近く10万人を超え続けてきた。

 中学生だと37人に1人、1学級に1人いることになる。理由は、いじめや体罰、集団生活への違和感などさまざまだ。

 不登校の子どもらの受け皿の一つがフリースクールである。学校教育の枠にとらわれず子どもの学びたいことを大切にし、講座や体験活動に取り組む。

 そんな学校外の学びの場を正式に認め、支援に踏み出すことを安倍政権が検討している。

 子を学校に通わせるよう親に義務づけた制度が約70年ぶりに改められる可能性がある。

 学校がすべての子にとって最善とは限らない。いままでの方針を見直すことを支持したい。

■学校一本やりは限界

 学校は津々浦々につくられ、子どもの学ぶ権利を保障してきた。教育の機会均等や格差是正に大きな役割を果たしている。

 学校現場は30年以上前から、学校に来ない子に登校を促してきた。担任が家庭訪問し、カウンセラーが話を聞く。その地道な努力は今後も必要だろう。

 だが、「学校復帰一本やり」の方針が壁に突き当たっているのも事実だ。

 文部科学省フリースクールなどに通った日数を出席扱いにすることを認めている。ただ、それはあくまで例外としての扱いだ。不登校の子への学費の支援はない。「なぜ学校に行けないのか」と自分を責める子や、「育て方が悪かったのか」と悩む保護者は少なくない。

 学校は、教育全体の中で、これからも中心的な役割を果たすべきだ。だが、教育の目的が人間としての成長を促し、社会で生きていく力を伸ばすことだとするなら、学びの場は学校だけとは限らない。別の選択肢も認めてよいのではないか。

■校外の学びどこまで

 学校外の学びの場について議論する文科省の検討会議が、1月30日に始まった。

 議論すべき点は多い。

 子どもが本当に学べているかを誰がどう判断するのか。

 学校と同じものを求めるなら、居場所の機能が失われかねない。一方、金もうけ一辺倒の施設も望ましくない。

 子どもに暴力をふるい、反社会的な内容を教える施設を排除する仕組みも欠かせない。

 大切なのは、子どもを中心に考える姿勢である。検討会議は学びの場の実態を調べ、子どもや保護者、スタッフの声を聞いて論議してほしい。

 フリースクールの役割は、何も学校に行けない子の居場所だけではない。そもそも、多様な思想や哲学を背景にした教育の場として生まれてきたものだ。

 学校にはない特色ある教育を展開する学びの場。そこにフリースクールの可能性がある。

 海外では、校外の学びの場が認知され、定着している。米英では家で学ぶ動きが広がり、デンマークでは人々が独自に学校をつくることもできる。

 日本でも親が家庭で学習を支えるホームエデュケーションや、子どもの表現を重んじるフレネ教育、自主性を尊重するサドベリー教育などがある。

 グローバル化のなか、インターナショナルスクールや外国人学校も増えている。

 今回の検討で、これらを正式に認め、支援の対象に含めるのか、除くのかも焦点だ。

■教育、誰が決める

 学校であれ、それ以外の学びの場であれ、公教育が多様な価値観を認めることは重要だ。

 「追いつき追い越せ」をかけ声に、豊かさへの一本道をひた走った時代は、とうに終わっている。正解の見えない問いについて、一人ひとりが自分なりの答えを探さねばならない。

 すでに日本でも、芸術の要素を採り入れたシュタイナー教育の学校や、フリースクールから生まれた中学校が構造改革特区の制度で認められている。

 学校外の教育は、どの国でも多数派ではない。

 「だからこそ意味がある」というのは、各国の実情を調べている聖心女子大の永田佳之教授だ。「少数派の教育が存在することで、主流派の『当たり前』が問い直される」

 別の学びの場があってこそ、多くの子の通う学校教育が豊かになりうる、社会が一色に染まるのを防げるというのだ。

 どんな学びの場をどこまで認めるかは、教育を誰がどのように決めるのか、多様な価値観を社会としてどこまで許すのかという大きな問いに行き着く。

 公教育は、これまで国が教科書やカリキュラムなど教育内容やプロセスを定め、入り口で質を保とうとしてきた。それを人々が教育内容を決め、選び、学んだ結果を出口で評価する方向に、どこまで変えるのか。

 教育のあり方は、これからの社会のあり方に直結する。検討会議の議論に注目したい。

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