何となくのつぶやき

今日は「子どもの日」

子どもの貧困

子どもの権利

子どもの数が減っている

など、考えるべきことがたくさんあります。

行政が考えることには限界があるので、自分たちで考えて行動をとっていくことが大事になってきますね。

それが上手に行政とコラボできればいいんですが・・・

さて、

不登校になってしばらくすると「友だちが…」と親御さんも本人も考えるようになります。

「友だちがほしいと思っていると思うんですよ。家でヒマそうにしているし、親としても同年代の友だちと遊べないことが心配です。」

・・・と、親御さん。

このような相談があった時に思うこと。

本人さんが友だちがほしいと「思っている」のでしょうか?

思っていると思っているのは親のほうだけでは?

親御さんが学生だったときの楽しい思い出がある方は、同じ思い出を子どもにも味わってほしいと思われてれているようです。

でも、今の学校や教室は親御さんの時代とは違うようですよ。

学校に行かなかったリ家にいる人で比較的元気な人は、「同じ年代の人と同じ箱の中(たとえば教室など)にいるのは息苦しい」「同じ年代の人と話すのはメンドクサイ(本人がまわりより大人びているなど)」などと話す人がいます。

メンドクサイことをするくらいなら学校に行かないほうがいい、と思うわけですね。

…それは、「怠けている!」とか、「小さい時にそんなことをしていては一生がんばらない人になる!」と思われるようです。

教員などがよく言われることです。

それから“がんばって”学校に通った経験のある親御さん。自分もがんばったのでね。

なんだか、信じてもらっていない子どもさんがかわいそうですね。

彼らが感じる「感覚的なもの」は防衛反応ではないでしょうか。

学校へ行って感じること、社会生活で感じること、

その「感じ」がほかの人に認められなかったら、否定されていると感じるのではありませんか?

その「感じ」は矯正されるべきものなのでしょうか。

しつけだといって矯正する人もいらっしゃいますが、私はそれは虐待だと思います。

…で、大人や親が「子どもの不登校やひきこもり」をどんどん生産していっているのですね。

私たち親は、どのような価値観をもって、どっちを向いて進んでいけばいいのでしょうか?

ちなみに、「友だちは○○へ行けばできるよ」と、ある元不登校児が言っていました。

○○は人が集まるところ。同じ目標をもっている人が集まる場だとなお良し。

年齢は関係ないようです。むしろ異年齢集団のほうがいいようです。

「外に出にくいんだけれど、友だちがほしい思っている」と思っている親御さん。

外に出なければ、友だちはできないかもしれません。

すると「外に出すこと」が目標になったりしますね。

外に出るようになるためにはどうすればいいのでしょうか?

親の悩みはぐるぐる回りますね〜 

「信じて、待つ」ことも、ひとつの解決法。これも難しいのですけれど…

無限ループ!